謙遜と遜り(へりくだり)の思いを魂に注ぎ込むと、
寛容・親切・善意の「実」が行動となって、実を結びます。
実を刈り取るためには「種」をまくことです。
明日の糧を得るには、今日のパンの種をまくことを忘れてはなりません。
「私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい」
昨日の糧が今日に続き、明日の糧となって、未来永劫に保証されることはありません。
願い求めることは「与えられる」ことへの感謝であり、
「与えられる」ことへの感謝の先どりです。
「今日もお与え下さい」と祈る者は、明日の思い煩いをしません。
その日一日を精一杯生きて、明日の事を思い煩わない、この確信が祈りとなるのです。
思い煩いは、不信行者が与えられる地の「審き」です。
座してパンが手に落ちてくるのは、祈りではありません。
祈りには働きがともないます。
祈るときは、その祈りが実現するように、働らかなければならないことを、
真理はその祈りを通して導いてくれます。
