ヒト・モノ・カネの支配がこの世の「試練」です。
世にある以上この「力」に支配されるのがわたしたち「人間」です。
試みがあって「忍耐」がうまれ、忍耐があって「練達」がうまれる――
試練に打ち克つには、この忍耐と練達とを武器・武具とすることです。
この世の試練は場合によっては「死」をもたらします。
しかし、神の試練とするとき、再生の道具・用具となります。
『愛するものたちよ、あなたを試みるために降りかかってくる、
火のような試練を何かおもいがけないことが、起こったかのように驚き怪しむことなく、
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶがよい。
それはキリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。』
神の試練をうけるには「悔い改める」ことです。
悔い改めとは肉の力では見ることのできない「罪」を示されることです。
罪とは「なぜ生まれてきたのだろう」「なぜ生きていかねばならないのだろう」
「なぜ死んでいくのだろう」との「存在」の意味を知らされることです。
罪を示されなければ、「存在」の自認「存在」の悔い改め
「存在」の赦しの涙をながすことができません。
「存在」の意味を知ってはじめて、「人を愛し」「神を愛する」ことができます。
罪とは「無愛」の「存在」の罪深さを徹底的に示されることです。
…主よ、罪の自認のない救いはあり得ないことを示されました。
悔い改めによって赦しをうけ、救いの力にあずからせて下さい。
その力こそ「試練」に立ち向かい、打ち克つことのできるキリストの力です。
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