できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
新約聖書 エペソ人への手紙 第4章2節
人の愛は利害・打算・計算にその基(もと)をおいています。
戦いや争いは、その計算・計画が外れ自分の思いどうりの
結果を得ることが出来なかったことに因を発する闘争です。
動物の愛には計算がありません。
悲しむべきことには、人間の愛だけがその悪賢さを内に秘めています。
誰かを愛するということは、苦しみを受ける覚悟を持つことでもあります。人の悲しみが自分の悲しみとなります。
人の苦しみが自分の苦しみとなります。
これが、しばしば私たちが自分を守ろうとして
人を愛することを躊躇させ、純粋さを損ねてしまう理由の一つなのです。
利害・打算・計算が根底にあると、面倒な事や煩わしい事、自分に不利な事が
要求されかねない人間関係に、心を開くことは非常に難しくなります。
この葛藤の果て・人間関係の果てに「無償愛」と「無愛」の分岐点があります。
恋愛関係然り、仕事関係然り、国際関係然り。
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」
新約聖書 コリント人への第一の手紙 第8章1節
損得感情や打算的な考えだけでは「愛に満ちた人生」を送ることは出来ません。
「愛」は「知識」と同様に、人を高みに登らせ、豊かさをもたらします。
「謙虚さ」と「柔和さ」がなければ、相手を下に見る高慢さが首をもたげ
「愛をもって互いに忍びあう」精神は、決して生まれません。
未婚率と離婚率が増加し続け、また紛争や戦争がなくならないのは
社会的な要因よりも、現代人の心の在り方の問題が大きいのかもしれません。
「そこに愛はあるんか?」は、大地真央さんが出演するCMのフレーズですが
シンプルでありながら深い意味を持ち、妙に心に強く残る印象的なセリフですよね…

問いかけられているうちに、現代人の「無愛」の罪の扉が解き開かれてきます。
つまり、愛の足りなさを指し示されているということです。
天が求めている「愛」を必要十分に持っている人間は、ごくわずかです。
ほぼ全ての人類が、自分の中の「無愛」を悲しむことです。
悲しみの涙が人間の打算を洗い流し「無償の愛」へ導いてくれます。