もうどうにもならない極限に到ったとき、人は「死」を選ぶか「神」を選ぶかです。
私も「アル中」「脳溢血」「倒産」という
播いた「種」を刈りとるために、極限の状況に到りました。
今日死のう・明日死のうと、迷いの道を歩いているとき、
示されたのが「悔いのない救いを得させる悔い改め」の導きでした。
人をうらみ・世をうらみ・神をうらむ――という、この世の悲しみに
捕らえられていたならば、いまの私の「姿」はあり得なかったでしょう。
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神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる
悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる』
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つまり、私の状況が神のみこころに添うた「悲」しみであったということです。
「なぜ」かは判りません。判ることは私の涙を神がぬぐいとってくださった事です。
爾来35年間、御言の学び・黙想・讃美・祈りが私の「仕事」「生活」「人生」
となりました。
神の御心に添うた「悲しみ」が「なぜ」かは判りません。
しかし、「どうなった」かの結果は確信をもって、「証」をなすことができます。
――主よ、滅びの荒海から救い出してくださり、恵みの天空を行き巡る身とならしめて
くださり感謝です。どうか一人でも多くの魂に、この「みこころ」をとりなしていく
ことができるよう、力をお与えください。
