死と、その影響力から免れられる人は誰もいません。
人は死に定められた存在であります。
また、死の先にあるものを、実体験として語れる人も誰一人としていません。
(※臨死体験は、死の先の実体験とはなり得ません)
そのような中で、日本では死生学に基づく「死への準備教育」が全くといって
よいほど為されてきていないのが現状です。
ますます、超高齢化社会に推移して行く中で、人生の幕を下ろす「死」を
ただ「未知で不思議な体験」として終わらせてしまって良いのでしょうか?
個人的な最後の希望としての「終活」は、一部の人々に根ざし始めていますが
あくまでそれは、最期の締めくくりを家族任せ、他人任せにしたくないという
「遺言」と同じような類いのもので、「死」そのものを真正面から捉えたもの
では決してありません。
「生」と「死」について深く考察することなく、有限である人生を終えること
に憂慮し、人生の各段階で「死」への準備教育を受けるようなシステムを作り
自分自身の「生」と「死」への心構えを幼少から養うべき段階に来ています。
死の足音が確実に近づいてきたとき、信ずるものがない大多数の人は
初めて死の先にあるものを「無」として具体的に意識し畏(おそ)れ始めます。
一方でクリスチャンは「死」における確実な約束が、聖書や協会の教えから
数多く与えられているので、ハッキリと「死」について自覚できているケースが
ほとんどです。
多くのクリスチャンは「キリストと共に死に」「キリストと共に生きる」という
生と死の関係性を認識しています。
クリスチャンの生涯は、イエス・キリストとの同じ歩みの分かち合いであり
死は全ての終わりではなく、キリストと共に永遠に生きる通過点でしかないのです。
すなわち、それは神が用意して下さる安らかで穏やかな素晴らしい御国へ属される
という望みに到達することで、祝福されるべき出来事として捉えられています。
知の巨人と呼ばれた、立花 隆さんが癌を患い、自分の余命を意識したときに
死後の世界を追求する姿を追った「死ぬとき心はどうなるのか」というドキュメントを
見たことがあります。有史以来、人類が答えを追い求め続けてきた生と死にまつわる
壮大な謎は、結局解き明かされぬまま終わり、立花さんもその生涯を終えました。
ことさらさように、死後の世界の存在を科学的に証明することは不可能ですが
逆に「死」をもって全てが終わるとも証明されていないのが科学の限界なのです。
死を新たな生への入口と考えるならば、人生のあらゆる労苦も決して無駄には
なりません。よりよい死を迎えるため の準備は、現在の生をよりよく生きよう
とする努力にも通じて行きます。
他方、「死」=「無」と捉える人は、大きな試練や不安に襲われたとき
自ら「無」=「死」に逃げ込み、人生の清算という早まった行動を取りがちです。
このような「絶望」は「生」を与えてくれたものに対する冒涜であり罪なのです。
試練を悲しみ「絶望」するなら「永遠の死」へ落ちて行き
天の訓練と思って処するなら、「救いと生命への道」が用意されます。
人生全体の意義は、死によって完成されるものであるから、「死への準備教育」は
そのまま、より良く生きるための教育にほかならないとも言えます。
生涯を通じて、かけがえのない自分だけの「生」と「死」を全うできるように
「死」についてより深い思案をめぐらす必要が迫ってきています!
今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり
あなたの道の光となりますように…